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善悪の彼岸 (岩波文庫)
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| 商品カテゴリ: | 人文,思想,学習,考え方
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| セールスランク: | 31244 位
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| 参考価格: | ¥ 735 (消費税込)
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善悪を考える入り口にある書
もともと“ツァラトゥストラ”の解説書として書かれたというだけあって、この本は分かりやすいです。 なんといっても読むべきは第二、第三章で、ニーチェ思想の入り口として、最低限必要な事はここに書いてあると思います。 第四章では彼の残した見事なアフォリズムを楽しめます。 有名な“怪物と闘う者は、そのため己自身も怪物にならぬよう気をつけるがよい”もここにあります。
しかしながら第五章以降は、果たして読む必要があるのかどうか私にはなんとも言えません。 ニーチェという人はとにかく戦闘的な人で、戦う相手がキリスト教だとかそれに付随する道徳だとかという、強大かつ明確なものである場合、彼の論旨は冴えに冴え、まさに尋常ならざる論理の一斉射撃が発動しますが、“ドイツ人というものは”“イギリス人というものは”“学者というものは”はたまた“女というものは”と、不特定多数を十把一からげにして罵詈雑言を浴びせるとき、読んでいる方としてはなんともやりきれない反発心が胸にわいてくるのを抑えることが出来ません。 一言で言えば“天上天下唯我独尊さん、じゃあ、あんた自分はどうなんだよ!”ということです。 この本の第五章以降はまさにそのような文章が多いのです。 ある意味、こういう文章によって誤解され、彼の本質を理解しない勘違い野郎たち(ナチスとか)に利用される宿命を負ってしまったのではないでしょうか。
価値規範の破壊
人間が善悪・道徳を論じる際に、何を根拠として「善は?である」「悪は?である」といった具合に定義できるのでしょうか。それは個々の経験から導き出されるもの、各自の置かれる状況から考えられるもの、またはそれぞれの心の働きに左右されるもの等々いかようにも述べることが可能であると思います。
善または真理の探究が崇高なものとして何も懐疑されなかったということが重要な視点だと思われます。「善とは何か」「真理とは何か」その命題に人間が何らかの価値を与えようとするとき、または認めようとするとき、人間が恣意的に勝手に決めつけた模範的価値・理想的価値が誤謬として生み出されているのではないか。善を行う人間・真理を知る人間など存在するのだろうか。ニーチェは、これらの命題を考究したように思います。
「おお、ヒューマニティーよ!おお、愚劣!〈真理〉とか真理の探究といえば、何やらもっともらしいものがある。ところでその際、人間があまりに人間的にそれをやらかすと、―「ただ善をなすためにのみ真理を求める」という次第となる―、賭けてもよい、彼は何ひとつ発見はしない!」(第二章 自由なる精神)
「善悪の何たるかを知っていると信じているもの、おのれの賞賛や非難をもって自画自賛し、おのれ自身を善と称しているもの、それは畜群的人間である」(第五章 道徳の博物学について)
したがって人間が到達すべき最終的な段階は、模範的価値・理想的価値を知るに至ることではないと考えているように見受けられました。
模範的価値・理想的価値を知る人間は、狭隘な人間自身・自分自身を信仰しているにすぎない、そのことが強烈に印象に残っています。
これはきつい、むずかしい
悪いことは言わんから、道徳の系譜、を先に読んだほうがいいと思います。難しいばかりではなく、翻訳が悪いのではないかと思われます。
岩波書店
道徳の系譜 (岩波文庫) この人を見よ (岩波文庫) 悲劇の誕生 (岩波文庫) ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3 ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2
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